こんにちは、高田です。
今回は、「”勝利至上主義”は親のエゴ?」という記事を読んで考えたことを書きたいと思います。
この記事では、「行き過ぎた勝利至上主義が散見される」という理由で柔道の小学生の全国大会の1つが廃止されるという事柄について、親・アスリート・指導者など様々な視点から意見を紹介しています。
実は、日本のジュニアテニスでも2022年の全国中学生テニス選手権大会のグレードがグレード1(全国大会クラス)からグレード4C(毎週末のように開催される地域大会)へと引き下げられました。
この変更理由は、決して今回取り上げる「勝利至上主義問題」とは関係ありませんが、僕は結果としては良い変化だと考えています。
僕も、ジュニアテニスを指導するひとりの指導者、テニススクールを経営するひとりの経営者、そしてひとりの人として、この件についてしっかりと考えてみたいと思います。
ジュニアテニスの指導者として勝利至上主義を考える
まず、ジュニアテニスの指導者として「勝利至上主義」は反対です。
また、具体的な取り組みとして、全国大会廃止や全国大会のグレード引き下げをすることに賛成です。
その理由は以下の2つです。
- 夏休みにあわせた全国大会が多過ぎて、ジュニアにとって身体・精神的な負担が大きすぎるから。
- 全中が「部活テニス」をやっている人の目標として機能するようになるから。
ひとつの理由は、全国大会(その予選大会)が増えすぎて、ジュニアスポーツとしてかけるべき負荷を越えてしまうケースがあるからです。
テニスでは、各年齢(12・13・14・15・16・18)の全国大会、小中高校の全国大会、その他様々な企業・団体が行う全国大会が年間で13大会以上(きっともっとあります!)あります。
特に全国で上位に入るような関東圏の選手は、夏休みはじめから秋にかけて、関東ジュニア → 関東中学 → 全日本ジュニア → 全国中学 → 世界スーパージュニア・ジャパンオープンジュニアと連日ハイレベルな試合をし続けなくてはいけません。
また、結局どの大会も上位には同じ選手が勝ち上がり、同じ選手に大きな負担がかかるというのがオチです。
猛暑の中でこれだけの連戦を子どもに強いるというのは、指導者としていかがなものかと思ってしまいます。
もうひとつの理由は、子どもの目標設定が柔軟かつ的確になるからです。
硬式テニスは、他のスポーツとすこし異質な課題を抱えています。それは、全国中体連に加盟していないため、多くの公立中学校には硬式テニス部がないことです。
そのため、部活動で硬式テニスをしたいという子どもは基本的に中学受験をする必要があります。(公立中学でも硬式テニス部があったり、例外的にひとり部活を認めてくれる学校もあります。)
また、ジュニアテニスは「ジュニアの子」と「部活の子」に分かれ、ジュニアの子は「小さな頃からテニススクールに通う選手志向の子」、部活の子は「そうでない子」という意識付けが成されています。
そのため、一部の学校を除いて「部活の子」は、「ジュニアの子には勝てないからしょうがない」という意識を持っているケースが多く見受けられます。
ただし、全国中学(とその予選大会)は高校進学やジュニアランキングなどに影響するため、先に挙げたような方法で出場する「ジュニアの子」が多くいます。
つまり、学校主催の大会である全国中学であるにもかかわらず、ほとんどの「部活の子」の目標になり得ないということが起きているのです。
今年以降の大会グレードの引き下げによって、きっと全国中学は「部活の子」の目標として機能するようになるのではないかと思っています。
僕は、このように変化することで、テニスへの取り組み方がことなる子どもがそれぞれにあった目標設定をよりしやすくなるのではないかと期待しています。
指導者として、ひとりひとりの子が自分が心の底から達成できると信じ、突き進める目標を持つことは、喜ばしいことこの上ないのです。
テニススクールの経営者として勝利至上主義を考える
長くなってしまいましたが、次にテニススクールの経営者として「勝利至上主義」への意見を述べたいと思います。
経営者としては「勝利至上主義」を抑制するための全国大会廃止は賛成ですが、事業として難易度が増すと考えています。
端的に言えば、「勝利至上主義」を排除することで、経営的に難しくなる教室やスクールは多くなるだろうということです。
その理由は以下の2つです。
- 「勝ち・負け」という誰にでもわかるシンボルがなくなるから。
- スポーツにおける「勝利」以外の価値の価値を追求・表現できないと生き残れないから。
ひとつの理由は「勝ち・負け」という目に見える指標がなくなることで、競技に打ち込む価値がわからなくなる人が増えるからです。
僕の肌感覚でしかありませんが、もしジュニアテニスから「勝ち・負け」をなくしたら、一定の人が競技テニスを辞めてしまうと思います。
もし、テニスの小学生年代の全国大会がなくなったら、きっと中学や高校までジュニアテニスを続ける人(続けられる人)は減るでしょう。
なぜなら、多くの人にとって、わかりやすく目に見える指標(フィードバック)がないと、そのプロセスを信じることが難しいからです。
そこで残るのはテニスというスポーツの「勝ち」以外の価値に目を向けている、ごくわずかな人たちだけになるのです。
そのなかで商売としてテニススクールを続けるのは難易度が増すのは自明でしょう。
もうひとつの理由は、先に挙げた理由と繋がっていますが、スポーツが持つ「勝利」以外の価値を追求し、表現できないと教室として生き残れないからです。
昨今は、このような議論が活発化しているため競技スポーツやジュニアスポーツの価値を理解し、追求する指導者や経営者が増えています。
ただし、そうでない人が一定数残っているのも現実です。
また、理解していたとしても、うまく表現できない人が多いのも、スポーツ領域の特徴でしょう。
つまり、どうやってわかりにくいスポーツの「勝利」以外の価値をわかりやすく子どもやその親御さんに伝えるのかが、1番の経営課題になるということです。
これまで「全国大会○連覇!」、「○年連続全国大会出場!」で生徒が集まっていた教室に閑古鳥が鳴くなんてことも起こりうるのではないかと僕は思っています。
人として勝利至上主義を考える
さらに長くなってしまいましたが、最後に人として「勝利至上主義」について考えたいと思います。
僕個人としては、ジュニアスポーツの入りは「勝利至上主義」で、限界を感じ始めたらその他の価値に目を向けるというのが良いのではないかと思っています。
なぜなら、僕がそのような流れをたどって良かったと思うからです。
サンプル数1なので、タメになるかはわかりませんが、最後に一応紹介しておきます。
僕自身、テニスを「部活の子」から始めて、とにかく「ジュニアの子」に勝つためだけに練習に打ち込みました。
入学当初は、「ジュニアの子」に名前すら知られることもなかった僕ですが、中学3年生になったときには主将として全国中学に出場することができました。
つまり、勝利至上主義に振り切ったことで、ひとつの成功体験を手にすることが出来たのです。
ただ、それから3年弱はとても苦しみました。
今考えると燃え尽き症候群だと思うのですが、試合に勝てず、練習のモチベーションも上がらず、でも表面だけは取り繕って…と、決して元から身体能力やテニスの能力が高くない僕にとっては勝利至上主義の限界を迎えていました。
この期間も、もがき苦しみながらも、本を読んだり、いろんな人と話し合ったりと試行錯誤を繰り返しました。
そして、ジュニアテニスのラストイヤーを迎える頃には、徐々に勝利以外の価値に気づきはじめました。
勝利とはスポーツにおけるひとつの結果にしかすぎない。
試合は、ピアノの発表会と同じで練習でやってきたことを表現する場に過ぎない。
だから、試合の勝ち負け云々は置いておいて、自分らしい表現ができればいいんだ。
そう思えたときに長いトンネルを抜けました。
最後のインターハイの予選大会では、これまでなら勝てなかったような相手に勝ったり、ゾーンを感じたりすることができました。
不思議なことに勝利至上主義を捨てきれたとき、勝利が舞い込んで来たのです。
僕は、勝利至上主義には限界と弊害があると思っています。
ただ、その限界と弊害を本人が感じるまでは、わかりやすさも含めて勝利を追い求めて良いのではないかと思います。
そこにぶち当たったときに、はじめてスポーツの勝利以外の価値の価値を考えればいいのではないか。
いやそこにぶち当たったとき、やっとその価値に気づけるのではないかと思うのです。
まとめ
実際に現場に立ち、子どもの指導を行っていると、
「コーチ聞いて下さいよ!先週末の試合は散々な結果で…」
「練習でやってることの1割もできてなくて、山なりにぽよーんって繫ぐだけで…」
と親御さんからのSOSをよく耳にします。
僕は「大丈夫大丈夫!まだまだ始まってすらないから!」と笑いながら返答するのですが、
やはり目に見えない価値をいかに可視化(理解しやすく)するかが、これから重要だと思います。
僕にとって、指導者として、経営者として、個人として、スポーツや教育の無形価値を追求し、わかりやすく表現することが使命なのかもしません。
この記事へのコメントはありません。