いじめは正義だから悪を懲らしめてるんだぞ、そんなふうに子供に教えたのは、僕らなんだよ。
こんにちは、高田です。
今日は、僕が高校生・大学生の頃にどハマりしたアーティスト・SEKAI NO OWARIの「天使と悪魔」という曲の冒頭の歌詞から始めてみました。
なんだかハッとするインパクトがありますよね。
悪魔は天使にとって悪魔であるだけであり、悪魔にとって天使は悪魔である。
そんな矛盾の中で僕たちは生きているということなのでしょうか。
そのあたりについてふんわりと思うがままに考察してみたいと思います。
なぜ正義の味方は5人で悪の組織の怪獣1体と戦っていいのか?
テレビで流れている〇〇レンジャーはなぜ5人なのでしょうか?
なぜ悪の組織の怪獣は1体なのでしょうか?
フェアじゃありませんよね?日本の武士道精神とやらはどこへ行ってしまったのでしょうか?
怪獣が先に街を破壊してたり、悪戯をしたりしているのだから、そんなフェアとか武士道とか言っている場合じゃないだろ。
こっちが正義であっちが悪なんだから懲らしめなきゃいけない!
これはストーリーとしてはわかりやすくて良いと思います。
でも、悪の組織の怪獣からしたら〇〇レンジャーは邪魔であり、悪です。
悪から見た悪が正義なのです
つまり、正義と悪は絶対的に固定されるものではないということです。
また、悪でも正義でもないグレーゾーンをみつけることもできるでしょう。
これが真実だということは常に理解しておく必要があると思うのです。
カテゴライズすることは理解を簡単にするが、簡単にしすぎる
そもそも、人間はカテゴライズすることで思考プロセスを簡単にしたがる生き物です。
だから、2つに分けてどちらが正しくてどちらが間違っているかという二項対立を決めつけようとします。
ただ、現実をフラットにみていると、どちらが正しくてどちらが一方的に悪いという事は、ほとんどあり得ません。
だから、僕は人との対立を感じたときには、常に相手の立場から見える世界を想像するようにしています。
自分の正義が相手にとっての悪になっているのではないかと。
もちろん、それを考えたうえでどのように振る舞うかというのは自分次第です。
理解した上での振る舞いであれば、たとえ同じ振る舞いでも、違う作用をすると思っています。
まとめ
怪獣と〇〇レンジャーが冷静な対話によって、お互いの正義の妥協点を見つけられる世界はくるのでしょうか?
きっとこのふたつの立場であっても二項対立せずに、ファジーでグレーなところを見つけられると思います。
まあ確実に物語として面白くなくなりますけどね。
動きもなければ、爽快感もない、怪獣と〇〇レンジャーの会議…
やっぱり、5人で1体の怪獣をボコボコにしましょう!笑
っていうのは嘘で、
みんながそれぞれの正義をぶつけ合えば良いと思います。
そして、それぞれの”正義感”に磨きをかけていけば良いと思います。
それこそが生きている意味なのではないでしょうか?
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